今日はなんかもややんとしております。
結構重たいことをつらつらと。
難しいね、難しいよ。
差別と偏見と配慮ってなんだろう。
似ているけれど、似てないんだろう。
お年寄に席を譲るのは差別じゃなく配慮だろう。
それでもひとによっては元気だから。
歳よりだから、という理由で席を譲られると
『見た目で判断して、わしはまだ若いわい』とかいって
偏見だといわれるだろう。
難しい、難しいな。
必要そうだから手を差し伸べたら
泥棒と間違えられたり。
難しい、難しいな。
嫌悪感を感じる人がいるから、クローズにしよう。
そうしたら、本人から差別だ、と訴えられたり。
難しい、難しいな。
BLとか同人とかは棲み分け大事なのは理解する。
それでも、一障害者として、というか、うん。
障害を持つものとして、考えると、うん。
配慮は必要なんだけれど。
そういうひともいるよね、って想うよ。
嫌いな人ももちろんいるだ折るな、って思うよ。
BLが好きだという、所謂腐女子と呼ばれる人たちは
自主規制しても、それほど問題ないだろう。
でも、でも。
同性愛者と呼ばれるひとたちは
それを隠す必要は、あるんだろうか。
差別、偏見、受けて当然なんだろうか?
ただ、同性が好きなだけなのに。
それを周りに伝えてはいけないのだろうか?
そりゃ嫌いなひともいるだろう。
嫌悪感を抱く人もいるだろう。
それでも、そのひとは『ひと』であって
同じ国、同じ地球に住む『ひと』であって
なんら変わらない。
そういう『ひと』がいないかのように振る舞うことは
見ないフリをするのは、存在を否定すること。
ブロッコリー嫌いなひとがいていいように
多分、同性愛者を嫌いだというひとがいてもいいけれど
ただそれ、本人に云っていいのかは、別問題だと思う。
それを理由に、友達を止めたり、
生きるてることに対して不利になることはダメだろう。
生理的に受け付けない人間がいること知ってる。
匂いとか、脂汗とか、そのひとを知る前に回避する。
わたしもそういうことあるから、それと同レベルなのかもしれない。
でも、生きてるから、そういう人もいるよね。
発達障害を持つ、一障害者として
どうしていいのかはわからない。
障害者という呼び方自体、差別なのかもしれない。
それでも、必要な配慮が得られるなら仕方ない、とも思う。
お年寄に善意から手を差し伸べる。
足の不自由なひとのためにスロープをつける。
目の不自由な人のために点字ブロックをつける。
耳の不自由な人のために標識をつける。
同じ人間だから、優しくする。
人間だから、認めていいんじゃないかな。
嫌悪感をあらわにするんじゃなくて、存在することを認めて。
障害者手帳を使う時に、いつも不安になる。
ハンディキャップ割引を受けられるけれど
これを使うことで、周囲のひとになんと思われているか、不安になる。
悪いことをしているわけじゃない。
それでも、二度と会うことのないひとかもしれなくても
「俺たちの税金で養ってやってる」
「あいつらばかり得しやがって」
そんな風に思われるんじゃないか、って。
両親健在で、健保は扶養で、年金だって納めてる。
それでも、手帳を使うことで、どう思われてるのか、不安になる。
使わせてもらってる身で
お世話になってる身で
周りは私が思うほどには気にしないのかもしれないけれど。
不安はいつも付きまとうよ。
いつか心から信じられるようになりたい。
同じ生命だから、助け合って当たり前なのだと。
助けてもらえるのは当たり前で、有難いことなのだと。
当たり前で、有難い、矛盾しているけれど、そう思いたい。
だれかを助けられる人間になりたいね。
コメント
読ませていただきました。
反応ありがとうございます。
心の中身、不安で仕方ないこと、吐き出しただけですが
吐き出せてよかったです。