静けさがしんしんと降り積もるような、そんな夜明け前。
闇夜の心細さは鳴りをひそめ、ただその一瞬一瞬が次なる日への英気を養う。
陰から陽へと転ずるこの時間は、この神域でもより神聖さが増すのか、凛と張りつめた空気が肌にぴりぴりとした刺激を齎す。
白く淡く立ち込めた霧が視界を奪うが、優しく目隠しをするようなそれには恐怖感は伴わない。
一歩踏み出せば、遠くで鈴の音が響くのがわかる。
「ここは」
青年はいつの間にか踏み入れたこの場所に、どこか懐かしさを感じて周囲を確認する。
先程まで眠っていたはずだ。それが今は、きちんと外套まで着込んで、靴も履いている。
しかし踏みしめた土の感触は曖昧であるし、ただ皮膚と背筋が、何ものかを感じている。
悪いものではない、けれど、緊張を伴う「ナニカ」。
「・・・・・こちらだ」
霧がうっすらと晴れた場所に朱色の鳥居が現れる。その数は思わず立ち竦んでしまうほどだが、呼ばれる声に呼応するように足が動き出す。
一歩、また一歩と進むのに、鳥居は瞬く間に後ろへと過ぎ去り、己の一歩とこの場所での一歩の違いを感じる。
ここは一体どこなのか。青年はわからないが、それでも歩を止めるという選択肢はなぜか用意されていなかった。
「よくきた」
社とでもいうのか、古びた建造物がそこにある。気配が濃密に、濃厚に立ち込め、息をするのもためらうほどに濃い。
先程から感じていたぴりぴりとした肌を刺すような痛みは、上から下から内へ外へと全てのものをある場所から叩きつける激しい痛みに変わった。
抑え付けられるような、息苦しいような感覚であるのに、青年はそれが『苦痛』だとは思わなかった。
「ここは」
神経が、細胞が、魂が。全てが入れ替わるような、新しいもの、清浄なものへと移り変わるような感覚。
この神聖な空間が、いままでの穢れを嫌うように、新しく無垢なものを求めている。
ならばここで息をするためには、この痛みを受け入れなければならないのだろう、直感として理解した。
「どこですか」
場所を問うた青年に、気配は少し緩む。ぴりぴりとした感覚が僅かに和らぎ、温もりが与えられる。
「ふむ、そうさな」
こちらの方が話しやすいか。気配はぐるぐると寄り集まって一点に集中したかと思うと、そこで人型を取る。
脳に直接呼びかけるような声は、一転して音となり鼓膜を経由するようになる。
人型を取ってはいても、光が強すぎてそこに在ることしか青年には認識できなかったが、その人型が腰を屈めたことはわかった。
「ここは我の内、そしてお前の内」
「俺の・・・?」
訝しむように口から発せられた音に、気配は大きく頷いたのはわかった。
「そうだ、お前のだ」
青年は意味が分からずに、沈黙を保つ。
脳内では忙しなくその意味を精査するが、それでも納得できる答えは出ない。
脳までも刺激を受け、全ての新しい細胞へと生まれ変わったかのように、いままでとは違うパフォーマンスを見せるかと思ったが、そうではないらしい。
内側から生じる熱は、周囲と適応し始めて境界が曖昧になっていく。
「ここが、俺の・・・・・」
「そして我の内だ」
パラドックスのような問答に、光が差したのはその瞬間だっただろうか。
眩しくてよく見えなかった気配の表情が、正しくは相貌が視えた気がした。
二つの眼の色、そして目許の特徴。
神気と形容するのが正しいのかはわからないが、気配自体は尊大で神聖で強い。
その気は己とは似ても似つかぬものであるが、確かに。
「俺の、内」
「そうだ」
確かめるように辺りを見回す。
ここが己の内側だと云われても、すぐには納得がいかないし、実感なんぞ湧くわけがない。
それほどまでに、いま、否これまでの自分とはかけ離れた神聖な場所。
身の内にどろどろとした、遣る瀬無さや悔しさを溜めこんで、その澱みに脚を取られて溺れそうになっていた。
「溜め込みすぎるな」
「・・・・・・」
「囚われすぎるな」
真に己を縛っているものを自覚しろ。
自分と同じ双眸に、そう告げられる。過ぎてはならぬと。
青年は瞳を閉じる。
胸の内にあるものをもう一度確かめるように深い呼吸をひとつ、そしてもうひとつ。
ゆっくりと瞳を開けると、そこはもう、謎に包まれた霧の中ではなかった。
「もっと」
掠れた自分の声が耳に届く。
『わがままになれ』
あの気配がいった言葉が、頭の奥で響く。
手足に取り付けられた鎖は、一体誰がつけたのだったか。
常識や、他人からの評価、そして自制心。
生きていく上での必要なものは確かにあるが、それでも不必要に縛りつけたのは一体誰だったのか。
あの場所では、澱みはなかった。それどころか、神聖でまったく無垢な存在だった。
常に新しく生まれ、常に新しい世界が広がる。
停滞し、澱みを作ったのは、一体何だったのか。息が苦しいともがいていたのは、溺れそうになっていたのは。
「錯覚だ」
明日がくるなど、誰にも保証はない。
時は常に動いていて、今日という日は二度と来ない。
いままでの常識すら、長い時、広い世界を見てみれば一時の気の迷いといえるような危うさを孕んだもの。
ここに留まる必要はない。ここに留まらねばならぬ理由もない。
ここがダメならば、もっと別の場所を探せばいい。自由に息ができる場所を。
「もっと、わがままに」
どこにいってもそんなものだと、呪いの言葉を周りは吐き、呪縛をかけるけれど。
そんなことでは、どこでもやっていけないと、頑張るしかないのだと、思い込ませる。
そうして誰かの足に鎖をつけ、生きる気力を削ぐ。逃げられないように、逃げるという選択肢など存在しないように。
否、逃げるのではない、他の選択肢を選ぶという行為があるだけだ。何も否定的な意味はない。
「もっと」
わがままに。
胸の内に確かにある、あの神聖な無垢な存在。善いも悪いもないのだ。ただ選んで前へ進むだけ。
己が屈辱に耐える理由も義理もない。それ以上にやりたいものがあるのならば、ここに留まる必要などないのだ。
青年は着替えとパスポート、いくばくかのお金を引っ掴んで、その家を出る。
とにかく、変えよう。立ち止まっていては、何も変わらないのだから。
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お題:「そうさな」「もっとわがままに」「霧」
お題提供:たんぽぽ様
いまちょっと苦しく悩んでいるので、代わりに希望をもって進んでもらいました。
コメント
核心に触れるような内容になりましたね。
苦しくて、生きる喜びを見いだせず、もがいていた日
縛っているのは、誰でもない、自分自身だ
もっとわがままに生きて・・
こころを解放して・・・
と、感じたことを思い出しました。
自分の代わりに、物語の登場人物に、進んでもらうこと・・・。
小説を書かれる方ならではですね。
登場人物に進んでもらうのは小説に限らず、
私の場合詩もそうだったりするのですが
今の自分では難しいな、と思うようなことも
頑張って乗り越えていってくれる姿に、
自分で書いておいてなんですが勇気をもらいます。
現実では上手く進めなかったり伝わらなかったり
もどかしい思いをすることが多いですが
少しずつ勇気と希望を蓄えています。
コメントありがとうございました。