どこからか吹く風が、耳に不思議な響きを連れてくる。
 歌うような、笑うような優しい音。
 黄金に色づいた麦がざわざわと揺れている中に、紛れるようにして聴こえてくるそれに導かれるようにして、脚が動き始める。
 直感を信じて、心に素直になって、などと耳触りの良い言葉が聴こえてくるようになり、男はどこか居心地の悪さを感じていた。
 和を乱さず、他人を思いやり、自らを制し、協力してことを成す。そんな価値観の中ずっと育ってきて、そして社会に出てからもそれが必要だと学んできた。
 先人たちは寧ろ和を乱すものは殺してもよいという考えであったし、苦労は買ってでもしろ、という教えさえあった。
 直感を信じて、心に従っていては、ひとは楽な方へと流れ、犯罪に手を染めてしまう。まっとうに生きるのであれば、自身を律しなければならなかったのだろう。
 平和な時代に育った男は、犯罪に手を染めようとは思わなかったし、染めなくとも生きることができた。 
 自分を律することは善と教えられ、心を出して欲を口にすれば我儘だと叱責される。たまには折檻もあった。
 叱責されれば気分が沈み、折檻されれば傷が治るまでは痛む。
 そんな目に合わないための自己防衛手段が『己を出さない』ということだった。己を出せば何かしら自らに不利益なことが起きる。ならば、初めから出さなければよいではないか。

「・・・これは」

 そんな価値観をもった男であったから、何故自分が歩きだし、あまつさえ走り出して聴こえてきた響きを探しているのか、理解しがたかった。
 大人になり、叱責されることも、ましてや折檻されることもなくなったというのに、男はいまだ自分を律し、心を開くことをしなかった。
 蓋をした心からは何も聞こえず、何も感じず。時折無性に息苦しさが襲ってきても、それを口にすることは習慣からすべきでないと感じていた。
 のたうちまわるほどの苦しみでも、一夜明ければ必ず朝が来たのだ。そうすれば社会の一員として、歯車として、働かなければならなかった。
 生きるための賃金を、生きるには少し窮屈な世界で稼ぐのは、心を殺していなければ務まらなかっただろう。
 何かを感じ、劣悪な環境なれどなんとか希望を見出し、己を信じて努力をした結果、裏切られて絶望する。そうして壊れていったものたちを幾人も見送り、自分は淡々と毎日をこなした。
 ブナの林の小枝が風に揺れてカサカサと音を立てている。何か秘密の会話をしているかのように、囁き合うようだ。
 その中でも微かに聞こえてくる響きは、やはりいま男が向かっている方向から聴こえてくるようだ。確信に満ちた想いが男の胸にある。
 川で遊んでは駄目。遠くへ行っては駄目。夕方には帰ってこなければ駄目。どこに行くのか先に連絡しなければ駄目。
 子供の頃の禁止事項は、好奇心を殺さなければ護ることは困難だっただろう。
 考えて行動しろ。いちいち訊くな。勝手なことはするな。相談位しろ。
 大人になってからの理不尽な抑圧は、首を縦に振らなければ首を切られ、そのままの足で踏み台に登り、梁に括り付けた縄で首を吊らねばならない。
 そうして、長い間雁字搦めの鎖に繋がれたまま、心の在り処など求めず、男は過ごしてきた。
 薄暗いブナ林は、変わらず秘め事を囁いている。

「・・・・・・あ」

 視界が開けたところで足を止める。
 夕陽と共に薄紫色が視界いっぱいに広がる光景に、思わず息を飲んだ。
 百合の花によく似た小さな花は、寄り添い合うようにして風に揺れる。そして歌うような、談笑するような、やわらかな響きは大きくなっても心地よく鼓膜を震わせる。

『もう、大丈夫』
『これでいいんだよ』
『誰もあなたを責めないよ』
『ほら』

 男の頬を生温かいものが伝う。
 何だろう、と思って、自然に体が動いて。
 陽も大分傾いて、いつもであれば誰も迎えることのない家に着いている時間。
 誰に連絡することもなく、誰に相談することもなく、ただ『気になった』からここまで来た。
 振り上げる手も、鼓膜を直撃するあの声も、もうない。

「うぅ・・・・・・」

 泣いても、「うるさい、これくらいで泣くな、男だろう」といわれることもない。
 男は屈みこんで、己の身を思い切り抱きしめた。
 








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お題:「響き」「ぶな林」「アガパンサス」
お題提供:たんぽぽ様

ちょっとばかり(?)内容が暗くなってしまいましたが、
これだ!って思ってから面白いくらいにすらすらかけました。
ありがとうございました。



コメント

nophoto
たんぽぽ
2016年9月2日22:36

お題で書いてくださって、ありがとうございます。

生きていくために、自分を抑え込んで・・・・。
その苦しさ・・・。

アガパンサスの揺れる響きが
縛っていたこころを解放させてくれる

感動して、涙があふれます。

ありがとうございました。

k
2016年9月4日18:26

たんぽぽ様>
読んでくださりありがとうございます。
心が解放される過程を描いてみましたが、
それがきちんと感じ取って頂けたようで嬉しいです。
幼少時代に親から受けた言葉や社会からの抑圧など、
言葉を発している側は何でもないことでも
ひとの心を縛る鎖となり、そのひとらしさを失わせてしまう。
発する言葉には気を付けていかねば、と思っています。

素敵なお題をありがとうございました!
k

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