忙しさにかまけて己を見失い、何が欲しいのかさえわからない混沌の中、夢うつつで目指した光は、覚醒すれば霧の中へと掻き消える。
 手を伸ばした先に真実があるのか、ただ心が憶えているのは『それが欲しい』という感覚のみ。
 目覚めてからは欲というものは鳴りを潜め、ただ淡々とした日常がそこに暗い闇の口を開いて待ち構えているだけである。
 身体が重い、頭が痛い、腰が痛い、食欲がない。
 様々な不調を抱えつつ、皆生きているという。歳を取るということはそういうことであると人生の先輩方はそう笑っているけれど、果たしてそうなのだろうか。
 ただ何となく日々を過ごす。目的もなく、ただ息をしている。
 日々の糧を稼ぐための労動と、労働力を生み出すための食事を繰り返し、身体を横たえて眠りにつく。
 穏やかに、小さなトラブルはあれども、静かな時とともに年月を経ていくことが『人生を送る』ということなのだろうか。

「・・・・・・」

 虚無感を抱えながら男は、周囲がそうだというのだからそうなのだろう、と思考を停止させる。
 このことについて深く考えてしまえば恐らく、気が狂ってしまうだろうという漫然とした予感がある。
 生きるということを投げ出さないのであれば、考えないことが一番健全な道なのかもしれない。頭のいい哲学者は考えすぎて狂人化し、自ら命を絶ってしまうのだから。
 あるがままの生活に、何の疑問も持たず日々を過ごす。当たり前の日々がこれから先ずっと続いていくのだと、信じられれば心に平穏を齎すだろう。
 しかし、変わらないのだということは、それはつまり。

「・・・・・」

 男は頭を振る。
 変わらない、変わって行かない。変わることを望めない。
 息苦しさを感じているこの場所で、変化を求めても何も変わらない。もっとよりよいものを求める向上心も、探求心も、この場所にはない。
 いま在るのものがいい、いま在るものでいい。
 思考を停止して、考えることを放棄して、それが嫌ならば出て行けという。馴染まないのであれば、ここにいる必要はないと。
 男は箪笥の抽斗をそっと開けた。
 随分と昔にそこに仕舞われたまま、幾年も過ぎてしまった着物をそろそろと取り出す。
 樟脳の臭いと、少しのかび臭さ、しまい込んでしまったが故の虫食いが所々に見受けられる一斤染めのそれは、曾祖母が好んでいたもの。
 高価な紅花で染めることは遠い昔禁色として規制がかかっていたようだが、このような淡い紅色は庶民でも着ることが許されたのだという。
 許された色、聴色は時を経て段々と濃い色になってきたようだが、それでも韓紅には程遠い。
 しかしそれは、とても優しい色合いで、とても落ち着く。
 曾祖母もそれが気に入っていたのだろう、よく身につけていたようだ。白黒写真で色は見えないが、身に着けた姿を写真に撮りたくなるほどに、愛用していた。

「・・・・・」

 そっとその着物に手を触れる。
 紅花は高価で希少価値が高く、その紅赤を出すには量が必要になる。贅沢品であるが、それでも少しずつ、気付かれない程度に濃くなっていく聴色は、庶民の必死の足掻きのようにも思える。
 もっと綺麗なものを着たい。もっとより良いものが欲しい。

「知恵と、工夫」

 どうすれば禁を犯さずに、望みが叶えられるだろうか。
 そんなことを考えながらより良い暮らしを求めていたのだろう。贅沢が罪とされた時代に、おかずの上にご飯を被せて隠したように。
 きっとそんな慎ましやかな努力を、知っていても見逃していた役人もいただろう。よりよく行きたいという欲求を、彼らも持っていたのだから。

「それが、なんでだろうな」

 ずるをして金儲けをする。相手を騙して金を巻き上げる。
 不正に手を染めて得をしたものを褒め、崇める。
 一生懸命真面目に働いているものを馬鹿にする。手を抜くことが生き延びる術だと豪語する。
 真面目にコツコツと働いていても、生活の質は向上しない。身に降り積もる疲労で、何かを消費しようという気さえ萎えて、眠り続ける。

「息が詰まる」

 つつっと男の頬を雫が伝う。薄暗い部屋では反射する光源もなく、ただ頬を濡らしたそれは、一斤染めの着物へと染みを残した。
 こつこつと工夫を凝らして、より良い生活を夢見た先代たち。そしてそれが報われてきた。
 いまは、どうだろう。工夫を凝らしても、虚しいだけ。生活の質が向上するどころか、悪化の一途を辿る。
 健全な心がどこかへと消えて、ただ社会を回す道具となって。

「心は、どこにいったのだろう」

 生きるのに必死で。心の充実などどうでもいいと、食べられればいいとそういう時代からすれば『甘えている』といわれても仕方のない悩みなのかもしれない。
 それでも、いつどこで誰がこちらの悪評を言い触らしているかわからないこの時代に、脅えずに過ごせという方が無理なものだろう。
 あっという間に世界中へと拡散されてしまう。悪意のあるものに暴力的な力を齎す時代。
 知らなければよかったと、そんな風に思う。そんな悪意の塊を知らなければ、もう少し安穏としていられたのかもしれない。
 いつもどこかで監視されて、ちょっとしたミスを論い嗤われて、それが周囲に拡散して己の評価を下げてしまう。
 日々を真面目に頑張っていても、他人の陰口をいうひとが、いつ自分を標的にするかわからずに脅える。
 そのひとのことを『信用できない』と認定しても猶、そのひとから伝わる噂で他の大切にしたい関係が壊れてしまうのが恐ろしい。

「窮屈だ」

 よりよく生きたい。そう願って発展してきた人間社会のはずなのに。
 何も考えずに、ただ歯車として生を消費する毎日。誰かの娯楽のために消費される精神。
 男は奥歯を噛み締める。
 誰の愚痴も聴きたくない。誰の批判も耳に入れたくない。ただ、ただ自分らしく生きたいのだと、それだけなのに。

「たったそれだけの願いが」

 受け入れられない。
 自分らしくありたい。それなのに、怖い。
 本当の自分などとうに見失ってしまって、何をしたいのかさえもわからないというのに。
 ただ、渇望する。己を取り戻したいと。

「・・・・・このままではだめだ」

 何かを変えなければならない。
 そのためには、ここにいることはできない。
 主張や提言が全てなかったことにされるような、この場所では叶わない。
 まずは、環境を変えることから。
 自分を取り戻すことができるなら、全く未知の場所へと飛び込むことも厭わない。
 何も変えようとしない、変わろうとしない、新しいことに対して拒絶するこの場所ではいけないのだ。

「ここでは、だめだ」

 見切りをつけるなら早い方がいい。
 見失った自分を、取り戻すために。
 男は着物を箪笥に戻すと机に向かった。




***************


お題: 『自分を取り戻すことができるなら』『ゆるし色』『つつっと』
お題提供:たんぽぽ様

思ったよりもシリアスになってしまいましたが、書いている間にするすると出てきた言葉たちです。
知らない単語を調べている間もたのしかったです。
ありがとうございました。




*手違いで一度削除してしまったため、再UPになります。
コメントも同時に消えてしまいました、申し訳ありません。


コメント

nophoto
たんぽぽ
2016年11月13日22:40

お題で書いてくださって、ありがとうございます。
共感しながら読ませていただきました。

書いている間に、するすると言葉が出てくること
とてもいいなと思います。

言葉が、文章が生きていると感じました。

許し色のことも、とても効果的に入れてくださって
ありがとうございます。

自分をとりもどすのは、取り戻さなくてはいけないのは
主人公ではなく、社会全体を覆っている空気(?)のようなものなのかも
しれない・・・と感じました。


k
2016年11月14日16:16

たんぽぽ様
再度コメントありがとうございます。
誤字を修正しているときに手違いが起きてしまいまして、すみません。
自分が自分らしく窮屈を感じずに、自然と他者を思いやれる
優しい世界があればいいのにな、とそんな風に思います。

k

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