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「抱返り渓谷」「あふれる」「チングルマ」
2017年8月24日 ネタ帳 コメント (2)両側にそそり立つ崖は、岩肌をむき出しにしていまにも渓谷を閉じようとしているかのようだった。
青い空に白い雲が浮かび、深い緑が空との境界を埋めている。
つり橋から眺めた景色に、思わずため息をつくと、その光景に圧倒された。
「・・・・・・」
言葉は出てこない。こんな景色をどう形容しようとも足りないという思いから、やっと頭に浮かんだ言葉さえも消えていく。
いまでこそ歩きやすくなった場所で、こうして観光を目的とした格好でも歩けるが、昔はこうはいかなかったのだろう。厳しい自然に創りあげられた場所は、ただひとりが通るので精一杯。すれ違うのには抱き合うようにせねばならなかったという。
他の観光客の歩みを止めぬように、ゆっくりと吊橋を渡っていく。
自分のものではないその揺れが、三半規管を少しずつ狂わせていくのに、足元さえもふらついてくる。しかし、橋も中ほどまで来てしまえば、この先へ進むのも帰るのも同じなのだから、と歩を進める。
足元の遥か下では渓流が音を立てて流れていき、風が頬を撫でる。真夏の日であっても、南の方からきた旅行者にとっては涼しく感じる。
やっとのことで反対側へと辿り着くと、少し進路から外れて改めていま渡ってきた橋をみやる。
新緑の季節であれば生命の息吹が感じられ、秋であれば鮮やかな紅葉が楽しめるだろうが、いまは夏真っ盛りである。むせ返るほどの緑の匂いが、その生命力の強さを感じさせる。
川に近い場所に下りるルートがあるようで、先に進むのはいったん止めて、下に降りてみることにした。
「・・・・・おっと」
足元に気を付けながら、木々の間を通って行く。あまりこちらにくるひとはいないのか、のんびりとしたペースで歩けるのがいい。懸命に鳴く虫や小さな花を眺めながら、川の音が強くなっていくのを感じる。
足を止めて、大きめの岩に腰を掛ける。足元に小さな白い花が揺れているのに気が付いた。5枚ある花弁の中心には黄色いおしべが多数ついており、次の世代へと生を繋ごうとしている。
その様子に、何故だか視界が潤んだ。段々と喉に熱いものが込み上がってくる感覚に思わず口を開ければ、熱を帯びた嗚咽がひとつ、零れ落ちた。
「・・・・・・・ふ」
自覚してしまえば、涙は止め処なく溢れてくるもので、次から次へと零れ落ちてくる。袖口で頬を拭っても、それでは追いつかない。ここが人気のない場所で良かったと思う。
瞼を閉じれば、紅い唇が思い浮かぶ。
笑みを浮かべたそれは、別の男の隣で楽しそうにしている。笑っている表情など何度も見たというのに、何故だかはっきりと思い出すことができない。鮮明なのは、その唇だけ。
彼女を彩る服もたくさん出てくるのに、彼女の顔だけはどこかでブロックがかかっているようでぼんやりとしたまま。
気分転換をしにここまで来たはずなのに。彼女のことをきっぱり忘れようとそう思ったからこそ、ひとりで旅行をしているのに。
「・・・・・・んで」
付き合っていたわけではない。告白さえしないまま。それでも、彼女に選ばれないと知っている。あまりにも素敵な人だから。ずっとずっと、見ていたかったのに。
そんな不毛な恋は止めようと。恋敵の多いこの恋は―――
「なんで」
それなのに、思い出す。
彼女の笑い声。彼女の微笑。くるくると変わるその表情。
精一杯の背伸びで塗られた口紅の色は、もう少し抑え目の方が彼女に似合っていることを。
忘れようと思えば思うほど、浮かんでくる。他の誰かを選んだ。告白する勇気さえない男よりも、愛を囁ける男が選ばれるのは当たり前なのに。
それなのに、悔しくて仕方ない。諦めようと思っているのに、悔しくて、悔しくて。
「ああ」
可憐な花は、たくさんの異性を引き寄せる。その魅力に魅せられれば、ただ吸い寄せられるのみ。
諦めるなどできようもないことは、わかっていた。いまはまだ、気持ちさえ伝えていないのだから。
腕を離して、顔を上げる。
涙の後はまだ、乾ききってはいないが、不思議と心は落ち着いていた。
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お題:「抱返り渓谷」「あふれる」「チングルマ」
お題提供:たんぽぽ様
チングルマの花言葉は「可憐」ということらしいです。
花は8月にも咲いているようなので、季節は今の時期になりました。
見たことのない花ですが、小さくて可愛らしいのでしょうね。
ありがとうございました。
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コメント
ありがとうございます。
渓谷の情景の中に、名前のいわれもさりげなく
入れてあり、さすがですね。
川の音、木々の緑などの描写も素晴らしいし
こころの描写もとても伝わってきて・・
胸が痛いほどです。
可憐な花と、愛しい人も。
読ませてくださって、ありがとうございました。
お久しぶりです。
コメントを戴いていたのにレスを返すのが遅れて申し訳ないです。
読んでいただけて嬉しいです。
知らない場所に想いを馳せて書いてみました。
毎回素敵なお題をありがとうございます。